街の外

 17:34

今回も簡単にねじ伏せられると江副文雄(えぞえ ふみお)は思っていた。最後に会ったときその男はあくまで平身低頭しており、意識不明の友人を心配すると同時にそれよりも強く美奈子の死に罪悪感を感じていたのだから。だから、奴の通夜に出席したのはあくま…

 23:16

入力することでその日記を読むことができるパスワードは自分たちのプライベートな数字だったから、現在の読者は自分一人だけだと確信できた。真壁啓一(まかべ けいいち)がこれを書き始めた当初、神野由加里(じんの ゆかり)にとってその日記を読むことは…

 12:12

緊張を解いたのは「しなの」が発車して10分は経った頃だった。それまでなんとなくあの男女の支配圏にいるような気がしていたのだ。雪が降っていた場所にいたというのに、手のひらにはびっしょりと汗。 もともと事業団から金を引き出そうとは思っていなかった…

 10:39

木曾の山はもう雪に包まれている。普段だったら都市部に出稼ぎ(各地の町道場へ稽古をつけに)行くべき時期だったが今年もそれはしないでよさそうだった。ささやかながら事業団理事の報酬もあるし、一年目のハウス栽培のイチゴは目が離せない。これが軌道に…

 20:17

店員の手にある皿を見て奥野道香(おくの みちか)は叫んだ。誰も触るな、動くな、そのコロッケは私のだ、と。サークルの後輩たちの試合を観戦したあと財布の機能を多分に期待されつつ打ち上げに招待された。自分と同じ四年生はゼミも一緒になる二木克巳(に…

 16:22

まだ日の高い午後四時だというのに店内は半ば以上が埋まっていた。さらにソファ席から届いてくる笑い声は彼らが十分に酔っていることを想像させる。見知った顔が開いたドアの下にある自分を見て凍りついた。新郎の上司にあたるその顔は田垣功(たがき いさお…

 18:30

「最近すっかり腰が痛くてねえ」 義理の父になる予定の男性のそんな言葉に不思議な既視感を覚えた。義理の兄になる男性がそれをたしなめる。毎日働きもせずごろごろして、それでいて飯だけはたっぷり食ってりゃ身体も悪くなる、腰なんかはらぺこでぐっすり寝…

 14:25

今年から開始したハウス栽培の苺はどうにか売り物になってくれそうだった。これで来期にはもっと作付けを増やせるだろう。 竹で編んだ籠に農具をつめ、満足しつつ家に戻った笠置町隆盛(かさぎまち たかもり)を見知った顔が出迎えた。おお、と笑顔を浮かべ…

 18:37

連休のうちに電話で快諾を伝えてはいたが、それでも出勤して立ち上げたグループウェアソフトに自分の辞令を知らされたときにはさすがに言葉に詰まった。 後藤誠司。 一二月一五日付けをもって右を関西営業部京都支店迷宮街出張所長に命ず。 懇意にしている田…

 10:24

自動ドアからこぼれてきた空気は暖かく、巴麻美(ともえ あさみ)はほっと息をついた。ここ数日というもの関東地方には寒冷前線が停滞しており、少しおおげさかと思った冬物のコートも内側がニットのノースリーブのセーターでは少し物足りないくらいだったの…

 19:18

夕食前の来客はセールスなどではなかったようで母の嬉しそうな声が聞こえてきた。軽い足音に続いてドアをノックする音がする。さすがに一昨日までここにいただけのことはある、勝手知ったるなんとやらだわと思いながらどうぞと声をかけた。 ドアを開けて入っ…

 19:20

車両前方の自動ドアが閉まり、笠置町翠(かさぎまち みどり)は息を吐き出した。 かなりきついことを言ってしまったのだろうか。少なくとも「大きなお世話」に属することを言ったという自覚があった。実際は自分の中に昨日からある後悔をぶつけてしまっただ…

 19:17

「座れたー!」 早速にかばんの中から紙袋を取り出した。中にはお土産に持たされたクッキーが入っている。 「みんないい人だった! 重ね重ねお礼を言っておいてね!」 笠置町翠(かさぎまち みどり)は、隣りに座った真壁啓一(まかべ けいいち)に笑いかけ…

 14:50

「やっと着いた…・…」 思わず出てしまった安堵の声は少し大きすぎただろうか。すれ違った家族連れのお母さんがくすりと笑う気配が届いてきた。赤面する。 笠置町翠(かさぎまち みどり)がいるのは東京都世田谷区の一角にある馬事公苑である。JRA(日本中央競…

 16:22

「いま言われていきなり人数が集まるわけねえだろ阿呆! 俺らは卒論書いてんだよ!」 二木克巳(にき かつみ)は携帯電話の向こうを罵倒した。流れてくる声は大学のゼミの親友でなにを好き好んだか卒業直前にして退学した男のものだ。久しぶりに東京に戻って…

 13:17

少し遅めの昼食として駅弁を買った。やっぱり旅は駅弁だと思う。コンビニでおにぎりやパンを用意したほうが割安だとはわかっているが、そこでしか買えないものは従うべきだ。今回は鮎寿司。先日、祇園の料亭で食べたのは飛び上がるほどうまかった。 同じく鮎…

 23:22

コーヒーカップを口に運んでそのぬるさに驚いた。このコーヒーを淹れたのは……一時間半も前になる。いつも見ているホームページを読んで、とにかく落ち着こうと身体が自然と淹れたのだ。フィルタに注ぐお湯加減も最適、きちんと後片付けもした。落ち着けてい…

 13:25

「陸ー! こっちこっち!」 内藤海(ないとう うみ)は改札口に現れた人物に手を振った。その人物の、茶色のコートの袖につけられたボアがふわふわと揺れる。駆け寄ってくる妹を暖かい気持ちで見つめた。 「お疲れ様でした陸さん。京都駅まで迎えに出てもよ…